総持寺 5月伝道標語

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三月十一日に東日本を襲った未曾有の大震災から、二ヶ月近く経とうとしています。いまだに、行方不明者は一万人に及び、多くの方が避難生活を余儀なくされ、震災とともに発生した原発事故は、まだ明らかな終息点が見えない状況です。

三月、四月と、自然は、春の息吹を迎えていたのに、私たちの心にはそれを受け止める余裕はまったくありませんでした。私は、すべての想いを前向きに考えることのできる春がとても好きです。しかし、今年の春ほど、重く後ろ向きな想いに沈んだ春はありませんでした。

そんな気持ちのまま、私はテレビを見ていました。そこで見たのは、山村ののどかな自然の中に美しく咲き連なっている、桜の木々でした。その地域は、原発事故の計画的避難区域に指定され、村民たちは、あと数日もするとこの地を離れなければなりません。村民の一人が、桜の木々を見ながら力づよく「たとえみんながどこかに避難したとしても、ここが私たちの故郷です。来年も再来年も、みんなでこの桜を見に来ます。」と言っていました。来年を待たずして、みんなが戻ってくることができるのを切に祈るのみですが、故郷の自然は、何よりも人間を勇気づけてくれるものなのかも知れません。「風と共に去りぬ」という映画がありますが、主人公のスカーレットが戦火を逃れて故郷のタラに戻り、広大な自然の中で、前向きに生きていくことを誓う場面が印象的でした。

私は「國破れて山河あり、城春にして草木深し」という 杜甫 ( とほ ) の詩の一節がとても好きです。自然は、時にはあらゆる生命や文明に猛威をふるうこともあります。これも自然の真実の姿です。しかし、どんなことがあっても、自然は、変わらぬいつもの姿を見せてくれます。春の訪れとともに、花が咲き、やがて新緑が芽吹いてまいります。そこには、気負いも、憂いも、迷いもありません。

現代の私たちは、普段、ありのままの姿として自然を意識することはほとんどありません。それは、すべてが人間中心となり、自然といえども生活環境の一要素として、人間が支配すべきものと考えられているからなのかもしれません。

しかし、人が人生の壁にぶつかり、身動きが取れなくなってしまった時、前向きに生きる道を示し、苦しみから救ってくれるのは、いつの時代も、ありのままの自然の姿ではないでしょうか。今、私は、そのことを強く感じています。

標題の言葉は、中国禅宗の第三祖鑑智僧★(かんちそうさん)禅師の『信心銘』について、瑩山禅師が註釈した「信心銘拈提」の一節です。意味は「風が吹けば、木々の枝葉は揺れ、春が来れば、花は咲く」ということで、何の変哲もない当たり前の事です。ただ私たちはその事実を、通常、我という偏見を通してしか眺めることはできません。しかし、もし我見を捨てて、ありのままに見ることができれば、これこそが、大自然の真実のあり方であり、人間の計らいの及ぶところではないことが解るのです。そのような世界の中で日々生かされていることに気づくことが、禅に親しむということなのかもしれません。

瑩山禅師は、自らの悟りを証明する言葉として「茶(さ)に 逢(お)うては、茶を喫し、 飯(はん)に逢うては、飯を喫す。」という言葉を残されていますが、標題の一節とおなじく、ありのままの境涯を述べられているのだと思います。人生の隘路に行く先を阻まれてしまった私たちの心を、古の真実の言葉が、かならず明るく照らしてくれるはずです。 平成23年5月 本山布教部
by seiryouzan | 2011-05-15 08:21 | 東日本大震災、僧侶の関わり

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