活動支える「遺体、家族の元へ」 名取市課長で僧侶・木村敏さん

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被災地で震災発生時刻に黙祷を捧げる人たち。津波で仕事中の夫を亡くし、自宅を流された女性は「まだ見つかっていない人が一刻でも早く見つかるように、という思いで祈りました」と話した=5月11日午後、宮城県名取市(大西史朗撮影)2011.5.13 21:24 (1)

無数のひつぎがレーンに整然と並ぶ。宮城県名取市の遺体安置所として一時使われた旧ボウリング場には、家族を捜す人が絶え間なく訪れた。名取市クリーン対策課の木村敏課長(51)は仙台市で500年以上続く寺の副住職でもある。職員として僧侶として、900人近い犠牲者を安置所で見送った。

 仙台市の内陸部を車で走っていて地震に襲われた。午後3時すぎ、名取市役所に着くと災害対策本部が設置され、佐々木一十郎市長と課長級以上の約40人が一室に集まった。

 倒壊家屋などの報告が進む中、津波が家屋や田畑をのみ込む映像がテレビに流れた。「名取じゃないか」「うそだろ」。誰もがキツネにつままれたような顔をしていた。

 「多数の死者が出る。安置所はどこが担当するのか」。日が暮れたころ、市長が言った。職員7人の自分の課は本来、ごみの処理業務が中心。だが、僧侶の自分が一番適任だと思い、手を挙げた。

 安置所には翌日から、遺体が途切れることなく運び込まれた。搬入と搬出の手続き、死亡者名簿や身元不明遺体のリストの作成…。職員は検視所と安置所を駆け回った。

 震災1週間後、初めて沿岸部に入り、見慣れた町が壊滅した状況を目の当たりにした。市民はもちろん、避難誘導した消防職員や、涙を見せずに働く同僚たちの家族もここで亡くなったのだと思うと、悲しくて悲しくて仕方なかった。

 一度だけ号泣したのもその日。亡くなったと思っていた知人の男性に検視所の前で会ったときだ。「生きてた!」と叫び、抱きついて泣いた。生きている人に会ったのがただただうれしかった。 「人は必ず死を迎えるってこれまで法事で偉そうに説教してきたけど、何も分かってなかったんだな」と振り返る。犠牲者が500人を超えるころ、多くの死を前に感覚がまひし、遺体が“もの”に見えてしまう自分がいた。罪悪感は今も消えない。でも、感情を殺さなければ職務をまっとうできなかった。

 「家族に帰してあげたい」との思いだけが支えだった。職員に頭を下げ去って行く遺族。ひつぎをのぞき込む横で黙って見守るしかない無力さを痛感する一方、遺体が家族の元に帰っていく度にほっとした。遺族にはせめて、悲しみを糧として生きる力にしてほしい。

 市には今、身元不明の100人以上の遺骨が残る。家族の元に帰すため、最善を尽くすつもりだ

by seiryouzan | 2011-05-16 15:46 | 東日本大震災、僧侶の関わり

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