2013年 12月 08日
大本山總持寺 平成25年12月の伝道標語
至道とは、無上の大道、つまり仏道の事でございます。仏道とは厳しいものではないのです。
揀択とは、ものをえり好みすることです。 この教えは、信心銘という名がついているのに記されています。信心とは、心を信ずることであり、心が清らかなことです。
ある人から、相談を受けました。「大切な人を亡くしました。私の生きがいでした。これから、私はどう生きていけば良いでしょうか。」
私はその時、金子みすずの詩を思いました。
花のたましい
ちったお花のたましいは
みほとけさまの花ぞのにひとつのこらずうまれるの
だって お花はやさしくて
おてんとさまがよぶときに
ぱっと ひらいて ほほえんで
ちょうちょうにあまいみつをやり
人にゃ においをみなくれて
風が おいでとよぶときに、
やはり すなおについていき
なきがらさえも ままごとの ごはんになってくれるから。
『(わたしはふしぎでたまらない)』
私はこの詩がその質問に、答えてくれている気がしました。
生きているものは、無常なるがゆえに死を迎える。これは全てにおいて平等です。そのことが、この詩の中にあふれています。
み仏様の花園は、仏道であり至道を表しています。
お天道様が呼ぶ時は、花の生育がありのままです。蝶々に甘い蜜をやり、人には、においをくれるというのも、全ての存在に対して、えり好みのない姿であるのです。
風がおいでと呼ぶときに、素直についていくことが、条件や都合のないところでの縁を結んでいるのです。なきがらさえも、ままごとのごはんになるのは、花が一生の間に変化をしながら存在している自分を見つけだす事で、一大事因縁となるのです。
このように、何かの都合で影響されるのではなく、花、本来の姿がありのままに表現されていることが、至道であり仏道なのです。
大切な人を亡くし、自分の生き方を見つけるには、人も本来の道を生きることです。
例えば、水の流れのように、高いところから低い所へ流れるのが真実であり、当たり前のことですから、これを信じていれば、本来のものは、決して難しいものではないのです。
瑩山禅師は、お茶を出されたら、お茶をいただきましょう、と示されました。お茶に対して好きだとか嫌いだとかの好みを理由づけしないで、唯、素直にいただけば良いのです。
至道(仏道)とは、唯、好き、嫌いなどの問題から、はなれていけば良いのです。決して、難しい理由は、いらないのです。どんなものでも、ありのままに見て、縁を大切にしていくこと、自分の都合の良い条件をつけていかないことが、至道無難、唯、揀択を嫌うということなのです。
平成25年12月 (本山布教教化部 布教室長 川原敏光)